公益財団法人 鹿島美術財団

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  2. 佐藤 康宏 氏 インタビュー
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アメリカらしい所に行ったり、観光はされなかったのですか。

佐藤 :

アメリカらしいところは、そうですね、ほとんど美術館に行かなかったセントルイスとかではタワーにのぼったりとか。あとはそうですね、カナダにちょっと寄ったんですよ。大西廣さん(当時、東京大学文学部助手、後、メトロポリタン美術館学芸員、武蔵大学教授)がバンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で教えているという、そういう時期で。だから凍っているルイーズ湖など見ましたよね。ホテルも奥平さんと全て相部屋で、それくらいの節約はしました。奥平さんは、プリンストン大学で「文使い図屏風」という作品を見ることができて、それが論文のタネになりましたし、それなりの成果を生んでいると思いますが。

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この旅行にボストン美術館が入らなかったのが、ちょっと残念ですね。

佐藤 :

逆に調査させてもらえるということになったら、ボストンは作品数が多いですからね。もっと日程が必要だったかもしれませんね。

髙岸 :

英語は、どういう感じで勉強されてきたんですか。

佐藤 :

大学ではフランス語とイタリア語しか勉強しませんでしたし、英語はそんな得意じゃないですよ。最初のアメリカ旅行のときは、とりあえず話さないとしようがないので、その頃が一番できたかもしれませんね。

髙岸 :

普通に受験勉強で、日本の英語教育を受けてきたと。その後もずっと英語論文、洋書なんかはずっと読み続けて。

佐藤 :

必要があれば。翻訳※10もしました。 ※10 佐藤康宏『絵は語り始めるだろうか』(羽鳥書店、2018年)にブライソン論文2篇の翻訳が収められる。

髙岸 :

やはり院生の頃にケーヒル先生とかに出会っているということもあるんですかね。

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ケーヒル先生を初めてお知りになったのは、それは著書で東大の頃に。

佐藤 :

彭城百川※11の論文を読んだのと、どっちが先なんだろう。百川の論文を読んでいたと思うんですが。実際にお会いしたのは、ボストンでのことだったと思います。その後はもちろん何度かお会いしていますけれども。 ※11 彭城百川(1697~1752)… 江戸時代中期の南画家。名古屋に生まれ、後に京都にて画家・俳人として活躍。祇園南海らと並んで、池大雅や与謝蕪村に先駆ける日本の南画草創期の絵師の一人。ジェームス・ケーヒル氏は1976年から79年にかけて、『美術史』誌上にて「彭城百川の絵画様式」と題した論考を発表している。

髙岸 :

アメリカでは美術史の方法論の変化が激しい時期ですよね。理論的な枠組みについても、現地との関係で考えるところがあったんですか。

佐藤 :

こちらが後から追いかけている感じですよね。ちょうどニューヨークで若冲の展覧会(The Paintings of Jakuchu, Master Artist of Japan, Asia Society, 1989)をやっていたときに、ノーマン・ブライソン※12のLooking at the Overlooked (1990) という本が書店に並んでいるというような、そういうタイミングだったと思いますね。結局その時はその本も買わなかったし、ブライソンを読み始めたのは帰ってからですが。 ※12 ノーマン・ブライソン(1949~)… 英国グラスゴー生まれの美術史家。ケンブリッジ大学を卒業後、ハーバード大学などで教鞭をとり、現在カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授。1970年代から80年代にかけて提唱された、新しい美術史学の潮流(ニューアートヒストリー)を支えた中心的人物の一人。

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当時次々と出てくるイズムを知っておかないといけない、常識的なトレンドといったものがあったのでしょうかね。今はそれほど、そこまでのものが出てくるという感じではなくなりましたか。

佐藤 :

今は何だか、落ち着いてしまっているんでしょうけど。

髙岸 :

ついでにお聞きすると、佐藤先生は1955年生まれなんですよね。そうすると、戦後10年。幼少の頃、宮崎県で過ごされて、アメリカ文化との出会い、映画、本、ファッション、音楽など世代的な感覚はどうでしょうか。

佐藤 :

確かに、同世代でもアメリカが好きという、アメリカに興味があるという人たちがいましたけどね、私はどちらかというとヨーロッパ志向で、あまりアメリカに興味なかったんですよ。文学ではアメリカ文学って、多分、エドガー・アラン・ポーやレイ・ブラッドベリなど以外はほとんど読んでないんじゃないかな。まさか日本美術史で、こんなにアメリカと関係が深くなるとは思いませんでしたね。

髙岸 :

ヨーロッパ志向というのは、フランスですか。

佐藤 :

フランスの文学とか映画には興味がありましたし、イタリアの美術とか、そういうことですよね。

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先生は学部の頃、はじめはイタリア美術を研究しようとされていたとうかがったのですが。

佐藤 :

最初、やろうとしていたのはイタリアです。イタリアへは文化庁時代に二回観光に行きましたね。

髙岸 :

イタリアの何にご関心があったのですか。

佐藤 :

最初に興味を持ったのはマニエリスムですね。パルミジャニーノ※13とか。その後は銅版画ですね、ピラネージ※14とか。 ※13 パルミジャニーノ(1503~40)… イタリア・マニエリスム初期の画家。《凸面鏡の自画像》(ウィーン美術史美術館)などの作品で知られる。 ※14 ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720~78)… イタリアの画家であり建築家。特に、古代遺跡を描いた細緻な銅版画制作で知られる。

髙岸 :

イタリア美術の中でも王道のところじゃなくて、少しひねったところに。

佐藤 :

ええ、そうそう。それが面白いと思ったんですね。

髙岸 :

佐藤先生の本を読んでいて、若冲と西洋美術の誰かが似ているというような話はあまり出てこないと思いますが、例えばマニエリスム的なものというのが、江戸美術のこういうところに出てくるというような話はあるように思いますが、その辺はいかがでしょうか。

佐藤 :

少しは、言葉とかはやっぱり借りて使っているように思いますね。理由はなかなか分からないところがあるんですけど、両者は結果的にちょっと似ているみたいなのはありますよね。曲線的なフォルムの乱用みたいなのとか。

髙岸 :

修士の際のアメリカ調査旅行で、MET(メトロポリタン美術館)、MoMA(ニューヨーク近代美術館)、シカゴ美術館などに行かれたときに、いわゆる泰西名画に出会ったと思うのですが、そのあたりはいかがでしょう。

佐藤 :

最初のときはあまりそちらのほうに時間も割かなかったということもあるので、そんなにインパクトはなかった気がしますね。何度か行って、アメリカは泰西名画も多いなと見直していますけれども。

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お食事とかはどうされていたんですか。何か先生はあまりファストフードがお好きじゃないイメージがあるのですけれども。

佐藤 :

大体、店で食べていましたよ。一応、チップを払うようなレストランでちゃんと食べていましたね。こちらも若かったし、あまり日本食を食べたいという気にならないですよね。

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てっきり佐藤先生が最初で最後のファストフードを食べられたのかなと思ったりしたのですが。あまり食べなかったですか、マクドナルドに行ったりは。

佐藤 :

食べてませんね。多分、マクドナルドハンバーガーって、生涯で一度しか食べたことがない。1985年にロサンゼルスで、しようがなくて、車でそこへ寄ってというのが一回だけ、たしかありますけれども。

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佐藤先生が二年前ですか、ボストンにいらっしゃるときも、アンさんからボストンのレストランの評価ガイドみたいなのを前日に渡されて、ここから先生のためにとびきりのお店をセレクトしなさいと言われ、五つ星を選ばせていただいて。すみません、ちょっと想像以上にお高かったですが。

佐藤 :

いやいや、良いお店でしたね。

※10 …
佐藤康宏『絵は語り始めるだろうか』(羽鳥書店、2018年)にブライソン論文2篇の翻訳が収められる。
※11 彭城百川(1697~1752)…
江戸時代中期の南画家。名古屋に生まれ、後に京都にて画家・俳人として活躍。祇園南海らと並んで、池大雅や与謝蕪村に先駆ける日本の南画草創期の絵師の一人。ジェームス・ケーヒル氏は1976年から79年にかけて、『美術史』誌上にて「彭城百川の絵画様式」と題した論考を発表している。
※12 ノーマン・ブライソン(1949~)…
英国グラスゴー生まれの美術史家。ケンブリッジ大学を卒業後、ハーバード大学などで教鞭をとり、現在カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授。1970年代から80年代にかけて提唱された、新しい美術史学の潮流(ニューアートヒストリー)を支えた中心的人物の一人。
※13 パルミジャニーノ(1503~40)…
イタリア・マニエリスム初期の画家。《凸面鏡の自画像》(ウィーン美術史美術館)などの作品で知られる。
※14 ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720~78)…
イタリアの画家であり建築家。特に、古代遺跡を描いた細緻な銅版画制作で知られる。

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