公益財団法人 鹿島美術財団

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  2. 泉 武夫 氏 インタビュー

作品の造形力が強力に訴えてくる「法華堂根本曼陀羅」

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次に作品についておうかがいしたいのですが、まずはボストンの仏画コレクションの中でお気に入りの作品を教えてください。

泉 :

やっぱり平安から鎌倉前半の作品はどれもお気に入りということになるんですけれども、先ほどの「法華堂根本曼陀羅」(前掲図1)は神棚に置くような別格の作品ですね。

髙岸 :

この作品も額装ですが、ガラスをはずして見ると全く違いましたか。

泉 :

そうですね。もともと図様が見えにくいものなので、やっぱりじかに見るほうが断然迫力があります。後日ですが、赤外線写真も撮りました。それまで公開されていた赤外線写真は画面の右上の部分だけでしたが※1 、左右の山水のあたりも実はすごく彫りが深くて、作品の造形力が強力に訴えかけてくる点で驚きました。東北大学の『美術史学』という紀要(第27号、2006年)に、アンさんとボストン美術館の修復師のジャッキー・エルガーさんらが書いた論文があるのですが、そこに赤外線写真を観音開きで載せています。やはり公開の責務があるだろうと思いましたので。 山崎一雄「図版要項 法華堂根本曼荼羅の赤外線写真について」(『美術研究』第192号、1957年)

髙岸 :

素材が麻で太い糸が密に詰まっているようですが、裏からも彩色は認められるのでしょうか。

泉 :

裏が見えないんですよ。額で固定されているので。でも、基本的にこの頃は裏彩色をやっていないです。

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つまり、ボストンに入って額装されてから、額がはずされたことはないということですね。

泉 :

ないですね。裏書には12世紀に珍海※2が修理したと記されていますが、その修理がいったいどの程度のものか特定できないというもどかしさがあります。そういった、まだまだ未解決の問題があるんですね。
 その後もボストン側で光学調査をやってもらって、ある程度の内容は『美術史学』の論文に載せました。ただ光学調査は、Ⅹ線や紫外線など何種類かあって、まだ報告されていない要素もあります。そこから何か結論めいたことが言えるということにはならないでしょうけれども、いまだに研究は続いているという、そういう作品です。
 それから、個人的に研究論文も出したのですが、この「弥勒菩薩三尊像」(図2)というのは今まで全く注目されることがなかった作品ですね※3平安後期の三論宗の学僧であり画僧。宮廷絵師・藤原基光の子。いくつかの白描図像に伝称作を残すほか、久安4年(1148)には東大寺法華堂にあった「法華堂根本曼陀羅」を補修したことで知られる。 泉武夫「異色の弥勒菩薩画像ー弥勒図像の一系譜ー」(京都国立博物館編『学叢』第19号、1997年)

左・図2:「弥勒菩薩三尊像」
(11.6182, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」25番

右・図3:「千手観音菩薩像」
(11.4034, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」3番

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今回の調査で新たに見出されたということでしょうか。

泉 :

少なくとも重要性が新たに確認できたということですね。
 今も研究の切り込み口が見つからないままでいるけれども、とても好きな作品というのが「千手観音菩薩像」(図3)です。同じく平安時代の「馬頭観音菩薩像」(『調査図録』第1章5番)や「普賢延命菩薩像」(『調査図録』第1章6番)もいいですが、これらは前々から研究論文もありますので。

髙岸 :

「千手観音菩薩像」を研究する上での切り口の難しさというのは、具体的にどのあたりですか。

泉 :

技法の説明や、制作年代の検討はできないことはないのですが、どこから出たのか、制作背景に誰がいるのかといったことについては手がかりがないんです。様式的な判断はしようと思えばできますが、その先になかなか進めないというもどかしさがあります。

髙岸 :

泉先生の解説を拝見していると、南都系※4のものが結構ありますね。また、京都も含めた「都ぶり」のものもかなり多い。そして神護寺や高山寺など、出どころが明確なものもありますね。 鎌倉時代以降、南都(奈良)の興福寺を中心に活躍した絵仏師集団により制作された、中世の仏画の総称。

泉 :

大体は平安仏画は「都ぶり」の作品と考えていいと思うんですね。平安時代の南都の作品というのは個性があり、そういう傾向の作品は今のところボストンには見あたらないと思っているんですけれども。

髙岸 :

京都周辺の可能性が高いということになりますか。

泉 :

そうですね。「馬頭観音像」も裏書から興聖寺伝来ということが分かりますね。伝来は分かるんだけれども、それ以上は進まないんですよね。

図4:「釈迦三尊十大弟子像」(11.4055-4057, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」22番
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ほかに、この調査で存在なり価値なりを見いだされた作品がありましたら教えてください。

泉 :

「釈迦三尊十大弟子像」(図4)も変わった三点セットで、真ん中は皆金色風、両側の弟子は恐ろしく個性的な顔立ちなんですよ。何か類品があったら分かりやすいんですが、残念ながらまだ思い当たらないですね、日本のもので何かないかなと気をつけてはいるんですけれども。また、「法相曼荼羅図」(図5)はアンさんが大好きな作品ですね。


図5:「法相曼荼羅図」
(11.4053, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」17番
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はい。南都仏画の理解のために、かねてから重要視されていましたね。

泉 :

「毘沙門天像」(図6)は有賀祥隆さん(現、東北大学名誉教授)が少し書いた作品ですが※5、名品なのに研究がまだない。これはとても優れた仏画ですが、やはり切り口がない。伝来は分からなくてもいいから、せめて図像的な特色からどのような系統かわからないかなと思っているのですが。 『在外日本の至宝 第1巻 仏教絵画』作品解説(毎日新聞社、1980年)

髙岸 :

春日関係の作品もかなりありますね。「春日宮曼荼羅図」(図7)は大きな画面で、解説では南北朝とされていましたが、様式的に鎌倉よりも少し降る感じですか。

泉 :

そうですね、微妙なところではあるんですけれども。以前から南北朝にされる先生方が多いのですが、どういう点がと言われるとちょっと。

髙岸 :

全体にふわっとした感じのものですよね。

泉 :

ええ、そうなんです。絹目も鎌倉のものよりは粗くなっているところがあります。

左・図6:「毘沙門天像」
(05.202, Chinese and Japanese Special Fund)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」42番

右・図7:「春日宮曼荼羅図」
(11.6261, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」77番

髙岸 :

鎌倉時代の作例は、南都系のものが割合としては多いですか。

泉 :

多いですね。

髙岸 :

やはり廃仏毀釈や、フェノロサとビゲローが集めた経路と関わってきますか。

泉 :

はい、そうですね。ひとつひとつ点検しながら、これはビゲロー、これはフェノロサと、意識的に見てきたわけではないのですが、やはり南都系が多いのは明治以降の状況と深く関わっているに違いないという印象は持ちましたね。

髙岸 :

白描の図像類に関しては、何か特徴はありますか。

泉 :

高山寺系が多かったですよね。上等なものが結構あるなと思いました。「仁王経五方諸尊図像」(図8)はとても大事な資料で、以前から仁王経関係の仏画を研究するときに、必ず参照しなければならない作品でした。それから「弥勒如来図像」(図9)は中野玄三さん(元、京都国立博物館美術室長)が詳しく調べられたものですが、明恵※6の所持本と書いてある。ボストン美術館はよくこんなものを入手できたなと思って。明恵自筆の添書まであるのですが、高山寺さんは気付かずに出したのかな。 鎌倉時代初期の華厳宗の学僧。平重国の子として紀州に生まれる。後鳥羽上皇から与えられた京都栂尾の地で高山寺を再興した。

右・図8:「仁王経五方諸尊図像」巻頭部分(11.6205, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」9番

左・図9:「弥勒如来図像」(11.6237, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」61番

※1 …
山崎一雄「図版要項 法華堂根本曼荼羅の赤外線写真について」(『美術研究』第192号、1957年)
※2 珍海(1091~1152)…
平安後期の三論宗の学僧であり画僧。宮廷絵師・藤原基光の子。いくつかの白描図像に伝称作を残すほか、久安4年(1148)には東大寺法華堂にあった「法華堂根本曼陀羅」を補修したことで知られる。
※3 …
泉武夫「異色の弥勒菩薩画像ー弥勒図像の一系譜ー」(京都国立博物館編『学叢』第19号、1997年)
※4 南都仏画…
鎌倉時代以降、南都(奈良)の興福寺を中心に活躍した絵仏師集団により制作された、中世の仏画の総称。
※5…
『在外日本の至宝 第1巻 仏教絵画』作品解説(毎日新聞社、1980年)
※6 明恵(1173~1232)…
鎌倉時代初期の華厳宗の学僧。平重国の子として紀州に生まれる。後鳥羽上皇から与えられた京都栂尾の地で高山寺を再興した。

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