鹿島調査で見られた作品のうち、特にお気に入りの逸品を教えてください。
まずは、初期狩野派から始めましょうか。狩野正信※3の「布袋図」(図3)には、横川景三※4の賛があって、景三の詩文集との照合から文明11年(1479)の作と分かる作品です。変わった印が左下に押してあって、正信のものかどうか分からないんですが、画風からいって彼の作に違いないだろうと思います。 室町時代中期の画家で、近代まで続く絵師集団・狩野派の始祖。小栗宗湛の後を継ぎ室町幕府御用絵師となったと推測され、足利義政に重用された。 室町時代中期の禅僧。足利義政に招かれ、相国寺や南禅寺の住持を歴任。中期の五山文学を代表する文筆僧のひとり。
狩野元信※5では、まず「宗祇像」(『調査図録』第8章6番)が挙げられますね。国立歴史民俗博物館にある「宗祇像」は、お坊さんの格好した寿像で重要文化財になっています。それに劣らない出来栄えだろうと思います。顔がどうも怪しいので後で手が入っているかもしれないけれども、画風から言ったら間違いなくすばらしい元信だと確信しました。像主も有名な人だし、お坊さんの格好よりも馬に乗っていたほうが格好がいいしね。
また、いかにも元信らしい作というのは「白衣観音図」(図4)。ラファエロ※6的というか、非常にバランスが取れていて、戦乱の世の中でよくこんな落ち着いた絵が描けたなと思うような作品なんです。
室町時代中期の画家で、狩野正信の子として後の狩野派発展の基礎を築く。室町幕府の御用だけでなく、宮廷関係の画事や寺社での大規模な障壁画制作も数多くこなした。
盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家。優美で調和のとれた聖母像を得意とし、「ルネサンスの三大巨匠」として、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチと並び称される。
元信とラファエロが似ているというのはどういうところでしょう。
ラファエロのことはよく知らないけれども、非常に安定したバランスやプロポーションがバロック的ではない。ただ、元信作品でも大徳寺大仙院の四季花鳥図襖絵はすごくバロック的な力動感を感じさせるので、幅のある人だなと感心します。激動の時代、明日でも寝首を欠かれるかもしれないという不安な時代に、あんなに幅のある作風を展開した。しかも大仙院襖絵というのは安定感もあるでしょう。あちこちのパトロンを得て、弟子をたくさん集めて、ああいうすごい絵を描けた元信の研究を、もう少しすすめる人が出てきてほしいなと思っています。
同じく元信の「金山寺図扇面」(『調査図録』第8章7番)は、鹿島調査の中でぽっと出てきたんです。景徐周麟※7という僧の賛があって、彼は永正15年(1518)に亡くなっているので、時代的にも元信の作品として合います。何よりも私は画風を見て、元信に違いないと勝手に直感したんですけれども。アンさんは、東京国立博物館で開かれた「ボストン美術館 日本美術の至宝展」(2012年)に出品してくれましたね。
次は元信の弟か弟子と言われている狩野雅楽助※8という謎の画家です。この人の作品は結構あるんですが、何といってもいいのは「松に麝香猫図屏風」(図5)ですね。どういうわけか片隻ずつ別れちゃって、片方はサントリー美術館、一方はボストン美術館にあって、比べてみたらそっくりだということになったんです。伝雅楽助作品の中でいちばん優れているし、作風も元信に近いので、専門家の間では彼の基準作と理解されていますね。
室町時代後期の五山文学を代表する禅僧。相国寺の用堂中材の法を嗣ぎ、横川景三らから詩文を学ぶ。
室町時代後期の画家で、狩野正信の子(元信の弟)。諱を之信といい、輞隠と号す。同名の印を持つ作品がいくつか現存し、うち何点かは彼の筆と同定されている。
次に狩野松栄※9ですが、「京名所図等扇面」(図6)が重要です。この発見も大変喜んだんだけれども、当時、私は元信とか元信派にこだわっていて、印章なんかにものすごくうるさかったんですが、これに捺されている「直信」印は疑いがなく、画風も非常にいい。まさに松栄の基準作だろうということになりました。計10面ほど残ってますよね。特に京名所図は同時代の洛中洛外図屏風の筆者を想定する上でも重要だし、おそらくこういう手法で松栄も洛中洛外図屏風を描いていたに違いないと思わせる。 室町時代末期から桃山時代初期の画家。名を直信といい、狩野元信の三男。
伝狩野永徳※10の「韃靼人朝貢図屏風」(図7)は、実物見ると非常にいいんですよね。桃山前期の特徴を持った非常に力強い作品で、こういうものを展覧会で日本に持ってきてもらいたいと思うんだけれども。同じく伝永徳の同名の二枚折屏風(『調査図録』第8章59番)も、永徳かどうか分からないけれども、彼を思わせるような非常に力強い佳品です。 安土桃山時代を代表する画家。名を州信といい、狩野松栄の長子。織田信長や豊臣秀吉に重用され、安土城や大阪城、聚楽第などの大規模障壁画制作を手掛けた。
図7:伝狩野永徳「韃靼人朝貢図屏風」
(11.4443, Fenollosa-Weld Collection / 11.6829, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』VIII「初期狩野派・桃山諸派」58番
狩野派以外の漢画派の作品はいかがでしょう。
長谷川派の場合は玉石混淆で、いいものと悪いものがごちゃごちゃあるんだけれども、長谷川等伯※11との関連で問題にすべきだと思う作品が「猿猴図屏風」(図8)です。これには雪村の落款印章があるんだけれども、明らかに後の偽款で、画風自体が等伯に近いことは確かなんです。私が見る限り、等伯が下絵風にあっさりと描いたもので、筆は彼自身だと思ったんですね。山本英男さん(当時、京都国立博物館主任研究官)と一緒に調査した際、彼はあまりうんと言わなかったのですが。 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した画家。能登国七尾で生まれ、同地にて画事に携わっていたが、後に上洛し千利休や豊臣秀吉に重用される。金碧障壁画と水墨画双方で独自の画風を確立し、狩野派に対抗する一派を形成、さらに『等伯画説』といった画論も遺した。
図8:長谷川等伯「猿猴図屏風」(11.7071-7072, William Surgis Bigelow Collection)
『調査図録』VIII「初期狩野派・桃山諸派」100番
皆さんには、私の言うことが当たっているか、外れているかを検討していただきたい。もし当たっていたら、等伯の屏風が一つ増えることになるから。相国寺の「竹林猿猴図屏風」にもつながるし、智積院の障壁画に出てくるタッチなんかにも共通するところがあると思ったんだけれども、さあどうだろう。少なくとも長谷川派には違いないと思うんだけれどもね。
ほかに長谷川左近※12の「牧牛・野馬図屏風」(『調査図録』第8章104番)も、いいなと思っていつも見返してるんです。変わり種としては、伝海北友雪※13「狻猊図屏風」(図9)。まあ友雪とは全く思えないけれどもね。非常に野蛮な書き方しているが、面白いといえば面白い。辻好みといえば辻好み。
安土桃山時代から江戸時代初期の画家で、長谷川等伯の四男。等重ともいう。
江戸時代初期の画家で、海北友松の子。父の跡を継ぎ海北派を再興、朝廷や幕府の御用をつとめた。
図9:伝海北友雪「狻猊図屏風」(11.4535-4536, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』VIII「初期狩野派・桃山諸派」114番
雲谷派では、雲谷等顔※14のいいものが二つあって、「東坡・潘閬図屏風」(『調査図録』第8章117番)と「山水図屏風」(『調査図録』第8章118番)。山口県の萩に行けば等顔の作品が見られますが、前者は晩年の非常にいいものだと私は思いましたね。
次に曾我派ですが、私のやっている曾我蕭白※15との関係で見ると非常に面白いものがあって、たとえば伝曾我直庵※16の「鷲図」(『調査図録』第8章134番)は、直庵では全くないけれども、こういうものが蕭白につながっていく。どうやら曾我派は直庵の後からこのような変な形の鷹や鷲を描き始めて、それが蕭白の奇妙な感じにつながっていくと思うんです。典型が「式部」の落款のある「鷲鷹図押絵貼屏風」(図10)で、これこそまさに蕭白前派ですよ。全体的に蕭白より少し力がない感じで、彼より少し前ぐらいの曾我派が描いたものでしょう。蕭白とのつながりで非常に面白いものだと思いましたし、絵そのものも本当にエキセントリックで上手で、とても興味を持ちました。
桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で、萩藩の御用絵師となる雲谷派の祖。狩野永徳、長谷川等伯、海北友松らと並ぶ、桃山時代を代表する画家のひとり。
江戸時代中期の京都の画家。室町時代の画家、曾我蛇足から始まる曾我派の系譜に連なると自称した。ボストン美術館は、伊藤若冲と並ぶ「奇想の絵師」として人気を集める蕭白の世界最大級のコレクションを誇る。
桃山時代後期に泉州(大阪)堺にて活躍した画家。曾我蛇足から始まる曾我派に連なる絵師と伝わる。主に豪壮な筆致の水墨画を描き、特に鷹や鷲などの鷙鳥図を得意とした。
図10:式部「鷲鷹図押絵貼屏風」(11.4142-4143, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』VIII「初期狩野派・桃山諸派」166番