公益財団法人 鹿島美術財団

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  2. 佐藤 道信 氏 インタビュー

唯一無二の「日本美術史」コレクション

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ボストン美術館の日本美術コレクションは、近代日本美術史から見てどのような特徴があるのでしょうか。

佐藤 :

ボストン美術館の日本美術を集めた人たちと、明治の帝国博物館や東京美術学校の中心にいた人たちは重なっています。フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心といった人たちですね。彼らは日本美術史という学問の基礎を作った人たちでもあります。その歴史的な体系性という点でボストンの日本美術コレクションはきわめて特殊で、世界中にひとつしかない「日本美術史」コレクションというべきものなんですよね。
 フェノロサは蒐集にあたって、絵師の流派の系統図を作って、それを埋めていくように作品を集めています。つまり個人の趣味嗜好で集めてはいない。彼は哲学者であると同時にいわば社会学者でスペンサー※16の社会進化論の信奉者でもありましたので、日本画の革新も進化として捉えていたんだろうと思います。彼にとって作品収集は美術標本の収集であり、生物進化論での標本収集と同じだった。ビゲローは医者だし、モース※17はダーウィンの生物進化論を日本に紹介した人でもあった生物学者です。全員に理系の見方が入っているんですよね。 イギリスの哲学者、社会学者。ダーウィンの進化論を社会学に援用し、社会進化論を唱えた。 アメリカの生物学者。1877年に来日し東京大学で生物学を教授、進化論を日本に紹介した。大森貝塚の発見でも知られ、蜷川式胤から購入した陶磁器のコレクションをボストン美術館に寄贈した。

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フェノロサ、ビゲローの後を担った岡倉天心の場合はいかがでしょう。

佐藤 :

天心は芸術家肌で、理系というよりは文学系の人でしたから、フェノロサたちとは少しタイプが違います。フェノロサたちはボストン美術館のコレクションを、体系化して日本美術史として俯瞰できるようにしました。つまり、自然科学や社会科学的な視点も反映して体系性をめざしたコレクションという意味で、ほぼ唯一のものだと思います。そして20世紀に入り、ボストン美術館が教育資料としての美術展示から、名品中心の美術展示へと転換を図ろうとしたときに天心が日本からよばれて、芸術性を前面に出した展示を行ったわけです。ですから、フェノロサたちの理系的・自然(社会)科学的な考え方と、天心の芸術家的で名品を前面化する考え方、この二つが合わさっている点が、ボストン美術館の日本美術コレクションの最大の特徴だと思います。
 天心のあと、ボストン美術館は日本美術コレクションを精選していくかのように、結構作品を売却しています。当初はいわば流派系統図のサンプル収集として、名品だけでなく作家名を埋めるように集めていたのですが、天心がやってきてそれらを質的にブラッシュアップした。結果として、天心が不要と判断したものが、新たな名品購入の際の資金調達をかねて、かなり売却されることになりました。こうした歴代学芸員の共同作業の結果として、今のボストン美術館のコレクションがあるんだろうなと思います。アメリカ人が自分たちの趣味ではなくて、日本人が日本美術をどう考えているのかを知った上で体系的に集めようとしている点でも、やはり唯一のコレクションという感じがします。

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ボストン美術館の日本美術コレクションは、フェノロサたち明治期に来日した西洋人と、岡倉天心ら日本人とが共同で集めたコレクションということですね。

佐藤 :

竹崎さんも最近論文を書かれましたね※18。ボストン美術館の日本美術は、日本のことをよく知っているアメリカ人と、収集に協力した日本人、そして日本側の美術行政のトップが関わった稀有なコレクションです。これだけでも特殊で唯一のものだと思うんですけれども、近代の再考が進む今はそれを自慢する以上に、むしろそれが美術史的にどのような意味を持つかという点でも、ボストン美術館のコレクションに注目すべき時が来ていると思います。
 そもそも日本美術のイメージ自体、海外と日本では異なっていますが、中国美術史観を復元するのにも、ボストン美術館の日本で収集された中国絵画コレクションが重要になるかもしれません。たとえば、中国の中国美術史では画院系※19がすっぽり抜け落ちているのに対して、ボストン美術館と日本での中国美術観は画院系中心でできています。一方、アメリカの他の美術館の中国美術コレクションは、中国と同様、文人画中心のコレクションです。つまりボストン美術館のそれは日本での中国絵画観、他の美術館のコレクションは中国での中国絵画観とつながっています。それらはともに19世紀から20世紀前半に形成されていますから、それらの相互比較は、中国、日本、アメリカそれぞれでの中国美術史観の形成過程と、日本では日本美術史と中国美術史がどのように関係づけられていったのかを知る、重要なポイントにもなるのではないかと思っています。 「ボストン美術館における近世大名家コレクションの蒐集とその意義―フェノロサによる日本美術史観の形成と蜂須賀家旧蔵絵画の関係を中心に―」(『美術史論叢』第39号、2023年) 中国の宮廷の絵画アカデミー「翰林図画院」の略称。盛唐に始まり、北宋の徽宗皇帝の頃に最盛期を迎える。元代には置かれなかったが明清代まで続き、その院体画様式が日本の水墨画の中心となった。

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お話をうかがっていますと、先生のご研究の内容や方向性にボストン美術館の作品が果たした役割が大きいように感じます。

佐藤 :

僕ははじめ鑑画会について調べる目的でボストン美術館を訪ねて、所期の目的は達したんですが、ほかの所にも鑑画会の作品があるのかと思ったらほぼ全くなかった。近代の日本美術は西洋に受け入れられることを目指したのに、どうも西洋では西洋化した日本美術はあまり評価されていないらしい。そうなると日本の近代化は誤りだったのかという話さえ出かねない危険な状況に思えました。日本の近代化や自国観、西洋観に関わる構造レベルの問題なので、どっちが正しいか間違いかというより、なぜそうした状況が起こっているのかを考えないと、埒が明かないのではないかと思わされた衝撃的な出来事でした。これがその後の私の研究方向の起点になりました。
 そうしているうちに北澤憲昭さんの『眼の神殿』※20が出版されて、これで日本側のことは分かると思ったんですけれども、ここから、では西洋と日本での日本美術観のギャップが、なぜどのように起こったのかを次に考え始めました。とくに鑑画会の場合、フェノロサと日本人の画家の共同作業であって、フェノロサと一緒に作っています。しかしその結果は、一般の西洋の人たちの日本美術イメージに合うかというとちょっと違った。西洋はジャポニスムによって日本美術に自分たちが求めるものを見出し、一方の日本は日本で、日本美術の西洋化をめざしました。しかし両者は必ずしもかみ合っていなかったということです。お互いの視線が交錯しているんだけれどもうまくかみ合っていない。このようなすれ違いは、現在でも続いている傾向です。相手のイメージは、それぞれが相手に求めたもので形成されているのではないか。そうしたことを最初に考えるきっかけになったのが、ボストン美術館での経験でした。 近現代の日本美術の動向を、明治初年に翻訳造語された「美術」という概念の制度化と諸局面として捉えた画期的な著作。1990年代以降の研究動向に大きな影響を与えた。

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明治の日本が主張したい日本美術観と、西洋が日本に求める芸術観が異なっていたということでしょうか。

佐藤 :

そうですね。日本美術観だけでなく現在の中国美術の研究状況をみても、これまではアジアにおけるキュビズムとか、西洋の美術がどのようにアジアに広まっていったかといった議論が中心だったんですけど、2010年代になってから国画を中心とする東アジアの近代美術史の見直しが進み始めました。最近では、文人画(南宗画)を軸とする近代美術交流史的な見直しの動きも出て来ています。中国の国画が軸になりますから、欧米で近代日本美術のシンポジウムをやると、ほとんどが南画の発表になるときがあります。

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たしかに最近は多いですね。

佐藤 :

中国で国画といえば、ほぼ南宗画・文人画ですが、日本だと南画は近代日本画の一部ですから、枠組が合わないんですよね。先ほど触れましたように、アメリカでも大半の美術館は中国絵画コレクションの中心は文人画なんですが、ボストン美術館だけが日本と同様に、宋元画や浙派系がコレクションの中心になっています。フェノロサが日本で狩野派から学んだ見方で、日本にあった中国絵画を収集したからですが、続く天心もその点は同じでした。つまり、日本の伝統的な中国絵画観を反映した中国絵画コレクションは、海外ではほぼボストン美術館だけなのかもしれません。では中国での中国美術観と、日本での中国美術観を合わせれば、中国美術史の全体が復元されるのかといえば、そう簡単ではないでしょうね。ただ中国でも、このところ中国美術史学史が進んでいるようです。中国美術史観が変わると、それと関係づけて語られてきている周縁国の自国美術史にも大きな影響が予想されますので、この辺の動向は注視する必要があるように感じています。
 ここで一点、僕自身の問題でもあるんですが、この研究のグローバル化の中では、英語力の問題は大きいですね。日本美術の場合、ヨーロッパとアメリカの研究者だけで欧米でシンポジウムをやることが結構あります。国際的な研究交流の場合、方法論や見方自体もかなり異なりますから、議論がかみ合っていくためには、やはり共通言語が重要になります。論点の設定とかビジョンの設定という問題と、テクニカルですが英語の問題ですね。日本の研究者がアジアや欧米でのシンポジウムにコミットしていくとき、かなり大きなポイントになると思います。あるいは自動翻訳の進展に期待していいんでしょうか。

※16 ハーバート・スペンサー
(1820~1903)…
イギリスの哲学者、社会学者。ダーウィンの進化論を社会学に援用し、社会進化論を唱えた。
※17 エドワード・シルベスター・
モース(1838~1925)…
アメリカの生物学者。1877年に来日し東京大学で生物学を教授、進化論を日本に紹介した。大森貝塚の発見でも知られ、蜷川式胤から購入した陶磁器のコレクションをボストン美術館に寄贈した。
※18 …
竹崎宏基 「ボストン美術館における近世大名家コレクションの蒐集とその意義―フェノロサによる日本美術史観の形成と蜂須賀家旧蔵絵画の関係を中心に―」(『美術史論叢』第39号、2023年)
※19 画院…
中国の宮廷の絵画アカデミー「翰林図画院」の略称。盛唐に始まり、北宋の徽宗皇帝の頃に最盛期を迎える。元代には置かれなかったが明清代まで続き、その院体画様式が日本の水墨画の中心となった。
※20 北澤憲昭『眼の神殿―
「美術」受容史ノート』
(美術出版社、1989年)…
近現代の日本美術の動向を、明治初年に翻訳造語された「美術」という概念の制度化と諸局面として捉えた画期的な著作。1990年代以降の研究動向に大きな影響を与えた。

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