Interview 05
近代日本画
佐藤 道信(さとう・どうしん)
1956年、秋田県生まれ。東北大学大学院修士課程修了。板橋区立美術館学芸員、東京国立文化財研究所研究員を経て、現在、東京藝術大学美術学部教授。著書に『〈日本美術〉誕生』(講談社選書メチエ、1996年/ちくま学芸文庫、2021年)、『明治国家と近代美術』(吉川弘文館、1999年)、『美術のアイデンティティー』(吉川弘文館、2007年)等がある。
先生は鹿島美術財団・ボストン美術館日本美術共同調査プロジェクト(以下、鹿島調査)の以前にも、ボストンに滞在されていたそうですね。
鹿島のボストン調査は1998年でしたが、1985年から86年にかけて、文部省の在外研究員でボストン美術館に行かせてもらいました。近代日本画の歴史は、フェノロサ※1と狩野芳崖※2らによる鑑画会※3から始まりますが、ここに出品された作品はフェノロサやビゲロー※4が購入しアメリカに持ち帰ったので、日本には残されていなかったんです。それらがボストン美術館にまとまってあるというのが重要なポイントでした。まず、アクセッションカード(所蔵品整理票)を見せてもらい、作家名や鑑画会への出品歴を確認しました。ただ、これらのカードにも当時の文献にも写真が付いていないので、実際の出品作との対応を確認するのはなかなか難しかったですね。鑑画会は、そのあと東京美術学校※5へと発展解消していきますが、近代日本画のいちばん最初の部分の作品群が日本になくてここにあるというのが大きなポイントでした。それは東京藝術大学の歴史や現代に続く日本画の歴史にも直結するところでしたから、とにかく何とか調べたいというのが第一目標でした。
ボストン美術館の日本画はフェノロサとビゲローが集めた作品群ですが、鑑画会への出品作に対しては彼らがポケットマネーで賞金を出していたので、美術館に寄贈されたもののほかに、彼らのプライベートコレクションとなっていたものもあります。フェノロサのそれらはフィラデルフィア美術館やフリーア美術館などにも譲渡されています。後々のことも考え、最初のボストン滞在では、鑑画会関係を中心に近代の日本美術全体の概要調査も行うことにしました。
アメリカ、セーラム出身の美術史家。ハーバード大学を卒業後、1878年に来日、東京大学で哲学などを教授する。日本美術に興味を持ち、収集作品(主に絵画)は後にフェノロサ=ウェルド・コレクションとしてボストン美術館に寄贈された。アメリカ帰国後は、ボストン美術館東洋部長として日本美術の紹介につとめた。
幕末明治期の狩野派の画家。長府藩御用絵師の家に生まれ、江戸で木挽町狩野家の狩野勝川院雅信に学ぶ。1882年にフェノロサに見出され、西洋絵画の空間表現や色彩を吸収して日本画の革新につとめた。
1884年フェノロサが組織した美術団体。当初は古画の鑑定、翌年から日本画の改良につとめ、狩野芳崖、橋本雅邦らを登用した。1887年の東京美術学校の設立により、同校に発展解消する形となった。
ボストンの医者の名家に生まれる。ハーバード大学医学部を卒業後、モースの講演で日本に興味を抱き、1882年に来日。フェノロサの助言で多岐にわたる日本美術を収集し、後にボストン美術館に寄贈した。帰国後はボストン美術館の理事をつとめ、日本文化や仏教思想を紹介した。
1887年に設立され、1889年開校。現、東京藝術大学美術学部。初の官立美術学校だった工部美術学校(1876~1883)が西洋美術教育専門だったのに対して、同校は伝統美術のみで始まり、後に西洋美術も開設された。
1985年の調査の際には、近代絵画というセクションそのものや、収蔵庫の棚の分類はすでにあったのでしょうか。
所蔵品番号できちんと整理されていましたし、棚での保存状態も良く、感心しました。日本にあれば、カビが生えていたかもしれませんし、明治前半の混乱期の作品ですから、それほど大切にもされていなかったはずです。かつては日本美術品の海外流出を批判する人もいましたが、作品にとってはあのような環境で保存されていたことは幸せだったろうと思いました。それくらい完璧な保存状態でした。
初調査の時から、アン・ニシムラ・モース氏(現ボストン美術館日本美術課長)が対応されていたのですか。
アンさんがハーバード大学を修了し、美術館に勤めはじめてまだ3ヵ月ぐらいの頃でした。東洋美術部は当時、彼女以外にも新人の人たちがいて、そこに僕もお邪魔したので、みんな同世代で仲がよく楽しかったですね。最初のうちはアクセッションカードを調べさせてもらって、実際に作品をみせていただいたのは半年間の滞在の終わり間近でした。アンさんにまとめて見せてもらったので、ずいぶん手間をおかけして申し訳なかったです(図1)。
彼女の仕事が素晴らしかったのは、その後、館蔵コレクションのカタログをきちんと作り、調査に来た人々にも積極的に作品を見せてくれたところです。日本では当時まだ、研究者が調べた作品は自分が発表するまで抱えておくという傾向が強く、それで近代美術でも研究情報を共有できるように1984年に明治美術研究会※6ができていました。アンさんは、美術館の情報をオープンにして、カタログを作って館のコレクションを日本にも紹介することを仕事の柱としてやってこられたので、本当に尊敬しますね。その恩恵を僕ら日本の研究者がどれだけ受けたかと、心から感謝しています。 1984年に設立され、1988年に明治美術学会となった。学会誌『近代画説』を発行。
1998年の鹿島調査では、何日間ぐらい滞在されましたか。
1週間から2週間だったと思います。1985年から86年にかけてのボストン滞在のすぐあと、『日本美術院百年史』(日本美術院、1989~2004年)に関わる調査で、細野正信先生(当時、山種美術館学芸部長)と1、2回うかがっています(図2、3)。すでに近代美術に関してはかなりの作品を拝見していましたから、鹿島調査では日本で未紹介の作品、図版として掲載されていない作品、そしてボストンにご一緒した高階秀爾先生(東京大学名誉教授)にご覧いただきたい作品を選びました。