ボストン美術館の肉筆浮世絵のうち、浅野先生の記憶に特に残っている作品は何でしょうか。
初期の作品は個人的に思い出深いですね。たとえば「中村座舞台図屏風」(図2)。菱川師宣※1系ではなくて、延宝3年(1675)頃の制作と分かる点では面白く、演劇史からも重要な作品です。すごいのが出てきたなと。
安房国(現千葉県)保田の縫箔師の家に生まれる。江戸に出て版本の版下絵師として活躍、また鑑賞用の一枚刷り版画の制作を始めたことから「浮世絵の祖」とも呼ばれる。
図2:作者不詳「中村座舞台図屏風」(表面)(11.4623, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』Ⅻ「肉筆浮世絵」35番
「変化画巻」(『調査図録』第12章39番)は制作年が記されていて、師宣の署名も2か所にあった。みんなで検討した結果、落款のある第12紙と第16紙だけが師宣本人で、それ以外は弟子だとなった。そういう絵巻物はほかにないんですよ。辻先生がずいぶん喜んでいました。
そして師宣の中で重要なのは、無款の「遊女道中図」(図3)。師宣が署名をするようになるのは晩年からで、原則的に初期から中期は署名をしていないと思っていました。そのことを証明をできる大切な作品で、比較的早い時期、かつ揺るぎない師宣作品で無署名ということになります。やった、と思った記憶があります。
他に、懐月堂安度※2「雑画巻」(『調査図録』第12章68番)には落款印章があってね。安度は、本人が描いたか分からないものが色々と混在していて面倒なんですが、これは揺るぎない。すごいのが出てきたと思いました。
江戸時代中期、18世紀初頭頃の江戸の浮世絵師。肉筆のみで版画は作らず、特に美人図を描き人気を博した。
図3:無款(菱川師宣)「遊女道中図」
(11.4618, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』Ⅻ「肉筆浮世絵」41番
人物を掛軸の作品に描くのと、絵巻形式に描くのとでは、違いがあるのですか。
そうですね。掛軸の作品は、いわゆる安度工房だと思うんです。レディーメイドで作っておくと常に需要があるものですから。絵巻の場合はオーダーメイドで、画料もその分高かった。気合の入れ方も違いますよね。絵師のプライドが投影されやすいと思います。
ボストンには宮川長春※3の名品もいっぱいあって、たとえば「遊楽図巻」(図4)。これも画巻ですね。「吉原風俗図屏風」(『調査図録』第12章94番)は無款ですが、みんなが長春で良いと認めましたね。大田南畝※4が後世に墨書をしたためているという点で歴史的に面白い。絵のスタイルは師宣の模倣ですが、一世紀ほど後になって、南畝が書を残しているということです。
江戸で活躍した浮世絵師。菱川師宣や懐月堂安度の画風を慕い、肉筆の美人図を多く描いた。
江戸の幕臣の家に生まれ、天明期の狂歌や戯作の世界にて活躍した。「蜀山人」の別号でも知られる。
図4:宮川長春「遊楽図巻」巻末部分 (11.4619, Fenollosa-Weld Collection)
『調査図録』Ⅻ「肉筆浮世絵」90番
時代の層が三つ重なっているということですね。当初の古い箱は残っていませんでしたか。
あまりなかったですね。逆に言えば、箱を気にしなくてよかったともいえます。箱がたくさんあると、箱書などをチェックしなければいけなくなって、かえってややこしい。
それから注目したのは絵看板です。今では日本でも少しずつ発見されていますが、当時は早稲田大学演劇博物館にある寛政5年(1793)の鳥居清長※5による絵看板が現存最古でした。しかし、この調査でそれより古いものがいっぱい出てきました。
江戸時代中期の浮世絵師。鳥居清満に学び、鳥居派の四代目を継ぐ。天明期には写生に基づく伸びやかな姿態の美人画を描き、浮世絵美人図の第一人者となる。
「錦木栄小町」(図5)、「けいせい皐富士」(図6)、「鵺重藤咲分勇者」、「出世太平記」、「仮名手本忠臣蔵」(『調査図録』第12章117・118・126番)あたりですね。
はい。歌舞伎の絵看板なので制作年も同定でき、すごい作品群です。ほぼ同時に出た辻番付との関連性も検証できます。
演劇史でも重要ということですね。絵看板というのは、実際に掛けて使っていたものですよね。
そうです。実際に掛けて、終わったら取り外して、通常は誰かが貰ってそのまま、あるいは朽ちて捨てると。だからこれらは奇跡的に残ったものということになる。ボストンにある作品は、マクリで取っておいたものを明治になって額に入れた可能性があります。一部は図柄がつながらないので、少し切り詰めたりしてね。
明治以降の大阪の劇場の絵看板は阪急の池田文庫が大量に持っていますが、江戸時代のものはわずかしか残っていません。浄瑠璃に関しては奇跡的に古いものが1、2点あります。近年、出光美術館にある屏風が浄瑠璃の絵看板だったと証明されましたね。
美術史的にも、年代が確実に押さえられるボストンの作品群というのは極めて貴重ということですよね。
そうなんです。すごく貴重です。
絵看板に独特の形式や技法といったものはあるのでしょうか。
鳥居派の絵看板は様式化していますからね。重要なのは、大きな画面のなかに複数の場面が描かれていること。それが通常の掛軸とは違う点です。もともと絵看板は絵馬と類似点がありました。しかし、絵馬は基本的に一場面しか描かない。そこが根本的に違う点です。それから看板は紙に描いている。絵馬は木に直接描くわけです。
縦が180センチ、横が100センチ近くあります。相当に大きいですね。
「けいせい皐富士」(図6)は、最初の図録ではたしか歌川豊春※6筆だと書いたはずです。今回は、鳥居派の絵看板であると気づいて訂正しました。最近データベースが充実してきているので、これも演目が見つかり制作年も分かった。それで初めて辻番付と類似すると確信を持てたんです。思い出深い作品ですね。 江戸にて活躍した浮世絵師。初め鳥山石燕に学んだといわれ、後に歌川派の祖となる。肉筆では美人画を多く描く一方、版画では西洋の遠近法を取り入れた浮絵(線遠近法を用いて奥行きを強調した浮世絵)を多く描いた。
図7:西川祐信「四季風俗図巻」巻頭部分 (11.7794, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』Ⅻ「肉筆浮世絵」132番
次に西川祐信※7の「四季風俗図巻」(図7)。祐信は絵本はもちろん、肉筆画もずいぶん残っているんですが、画巻は2つしかなくて、この作品と千葉市美術館のものだけです。そしてボストンのほうが人物が大きい。人物が小さければ情報量は多いのですが、見応えという点では大きいほうがいいですよね。
また、鈴木春信※8の「隅田河畔春遊図」(図8)はだいぶ劣化した作品ですけれども、春信の肉筆画で誰もが認める作品として貴重です。辻先生をはじめ全員が疑いないということで、状態は悪いけどヒットだね、ということになりました。小林先生もたいへん喜んでいましたね。
江戸時代中期に京都で活躍した浮世絵師。主に絵本の挿絵を多く描き、肉筆の美人図にも優れた作例を残す。その優美な美人画は、鈴木春信ら江戸の絵師にも影響を与えた。
江戸中期の浮世絵師で、錦絵の創始者として知られる。活躍期間は宝暦10年(1760)以降の十年間に限られるものの、この間に制作した優美可憐な美人画様式でもって一世を風靡した。
図9:勝川春章「春遊柳蔭図屏風」(11.7774-7775, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』Ⅻ「肉筆浮世絵」203番
それから、勝川派もたくさんありました。全部いい作品で、たとえば、春章※9の「春遊柳蔭図屏風」(図9)。大きな屏風に描かれていたことと、状態のよさで、びっくりした作品です。鳥居派では、「柳下美人図」(『調査図録』第12章124番)。清長の名品で、フリーア美術館にあるものと双璧をなします。ほかに鳥山石燕※10の「百鬼夜行図巻」(『調査図録』第12章270番)ですか。近世の百鬼夜行図巻としては随一というオリジナリティでね。 江戸時代中期の浮世絵師。宮川派から一派を興し、鈴木春信から影響を受けた美人画を残す一方、歌舞伎俳優の似絵を描いた役者絵を創始した。晩年になると、宮川派の流れを引く肉筆美人画を多く手掛けるようになる。 江戸時代中期の町絵師。狩野玉燕に学んだ狩野派の画家ながら、絵本の挿絵を多く手掛け、特に妖怪画が著名。浮世絵師の歌川豊春や喜多川歌麿を育てた。
もとの中世の絵巻とくらべると、原型をとどめていないですね。
古い作品から大きく変わって、石燕の百鬼夜行になっている。後の世代への影響も大きいですね。浮世絵も、明治初期にビゲローらが集めた頃は、日本ではまだまだ重要視されていなかった。だからいいものがボストンに渡りました。
最後に葛飾北斎※11。世界一のコレクションはフリーア美術館ですが、ボストン美術館はそれに次ぐ水準です。重要作は「朱鍾馗図幟」(『調査図録』第12章375番)。「鏡面美人図」(図10)は日本にあれば確実に指定品です。ボリュームもあるし、クオリティも抜群ですね。
江戸時代後期の浮世絵師。70年に渡る作画期間の中で多種多様なジャンルを手掛けた。特に風景版画で名高く、フランス印象派など西洋の画家たちにも影響を与えた。
図10:葛飾北斎「鏡面美人図」
(11.7424, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』Ⅻ「肉筆浮世絵」374番
下絵類は今でもたくさん眠っていますね。
「四季昼夜画譜」(『調査図録』第12章395番)は面白かった。辻先生がとても気に入ってましたね。辻先生は、オリジナリティに溢れているとおっしゃったのですが、この印は基準作と合いませんと言ったら睨みつけられて。合わなくたっていいんだ、絵がよければいいんだ、と。
印が合わないというのは難しいですね。
北斎は印もたくさん使っていますから。ただ、僕らが警戒しているのは、北斎だけが明治時代になっても値が下がっていないことです。在世時から現在に至るまで、一貫して人気があった。そういう人は贋作を作られやすいということですね。
それぞれの先生のものの見方や考え方の違いがよくわかります。
北斎の娘・応為による「三曲合奏図」(『調査図録』第12章440番)も重要です。彼女の作品はみんなで必死に探していますが、なぜか7、8点しか残ってないのです。
それから、ボストン美術館には肉筆の春画も100点ぐらいありました。私と内藤さんでざっと見ましたが、半分以上はいい作品でしたね。