Interview 07
初期狩野派
辻 惟雄(つじ・のぶお)
1932年、愛知県生まれ。東京大学大学院修士課程修了。東京国立文化財研究所美術部技官、東北大学文学部教授、東京大学文学部教授、国際日本文化研究センター教授を経て、千葉市美術館館長、多摩美術大学学長、MIHO MUSEUM館長を歴任。現在、東京大学名誉教授、多摩美術大学名誉教授。博士(文学、東京大学)、文化功労者。著書に『奇想の系譜』(美術出版社、1970年/小学館、2019年)、『戦国時代狩野派の研究』(吉川弘文館、1994年)、『日本美術の歴史』(東京大学出版会、2005年)等がある。
このたび、『ボストン美術館日本美術総合調査図録』(以下、『調査図録』)が刊行されました。鹿島美術財団・ボストン美術館日本美術共同調査プロジェクト(以下、鹿島調査)を主導された立場から、お考えをお聞かせください。
西洋美術史の伝統では、カタログ・レゾネ(作品総目録)というものが一般的ですが、日本には少なく、空前絶後のものになったのではないでしょうか。今はインターネットの時代になりましたから、ウェブサイトにつながればこういうものを作らなくてもよいともいえます。けれども、世代的に私にはあまりなじまない。やはり本は残りますから。カタログ・レゾネの伝統も捨て難いし、将来、紙の本も復活するかもしれないと思っております。『調査図録』が作られた意味は、本から全体像が見え、ボストン美術館の館蔵品を掲載したウェブサイト※1と併用することによって細かな作品画像も確認できることにあります。両方を併せて使うことで効果を発揮する。自画自賛かもしれませんが、画期的なものだと思います。のべ国内外の50人近くの研究者が協力した結果が今回刊行され、私としても生涯の仕事の中で本当にありがたいものだったと思っております。
鹿島調査の成果を反映したボストン美術館所蔵日本美術作品の情報は、以下のコレクションサーチから検索できる。
https://collections.mfa.org/collections
今、こうやってページをめくると思い出がよみがえってきますか。
本当にそうですね、よみがえってくる。調査が始まった経緯についてここで申し上げておきますと、そもそもの始まりは1981年。私はハーバード大学に何ヵ月か滞在したのですが、そのときジョン・ローゼンフィールド※2教授という大変人格者で知られた先生がおられて、本当に親切にしてくれたんです。小澤征爾の指揮するボストン交響楽団を3度も一緒に見に行ったのは、よく記憶に残っています。そのローゼンフィールド先生の教え子に、のちにボストン美術館の学芸員になるアン・ニシムラ・モースさんがおられたんですね。
今回めでたく完了した鹿島調査の出版は、彼女の存在なくしてあり得なかったものですが、実を言うと、彼女と夫のサミュエル・モースさんとは、私の家族が1981年、北鎌倉に移り住んだ時以来の仲です(図1)。御二人は当時学生結婚していて、北鎌倉に住んでおり、アンさんは東大の研究生でした。
テキサス州ダラス生まれの日本美術研究者。画家を志しテキサス大学に入学後、第二次世界大戦のためアジア各地に出征。戦後、南メソジスト大学を経てアイオワ大学美術史学の修士課程に在学中、朝鮮戦争のため再び日本と韓国へ出征し、帰国後はハーバード大学博士課程にてアジア美術の研究を始める。1965年から日本美術史の教授としてハーバード大学に赴任し、91年の退職まで同大学教授を務めた。2012年には第13回フリーアメダルを授与される。
その後、ボストン美術館に勤め始めたアンさんとボストンへ行くたびに話をしていると、「日本から来る研究者はたくさんの所蔵品を見せてくれと所望し、パチパチと写真を撮るだけ撮って、それっきりで何の音沙汰もない。それが際限なく続くというのはいかがなものか」と言われました。なるほどこれは問題で、そういうことをなくすにはどうしたらいいかなと考えたわけです。私はカタログ・レゾネというものを西洋美術史の研究者からいつも聞かされていたので、そういうものを作ってみるのはどうだろうとアンさんに言ったら、結構なことだとなったんですね。問題はお金で、どうするか考えたんだけれども、ちょうどタイミングよく選考委員になっていた鹿島美術財団の委員会があったんです。そのときにいくつかのプロジェクトが付議されて、鹿島調査が運よくスタートしました。
1991年から94年までを第一次、95年から99年までを第二次として、各分野の専門の研究者による悉皆調査が行われました(図2)。合計2,297点の所蔵品についての報告があり、講談社から『ボストン美術館日本美術調査図録』(第一次、1997年/第二次、2003年)が刊行されたんです。しかし、2000年に始まった第三次は最後の絵巻の調査の途中で中断してしまった。なぜかというと、まず時間がかかり過ぎたということ、それから経費があまりにもかかったんです。また、最初に出した図録は第一次・第二次それぞれに解説編と図版編を付けて、さらに第一次は英語も附したバイリンガル版まで出したのですが、売れ行きがあまりよくなかった。それから14年間の中断を経て、調査が再開されたんです。
どうして再開されたかということですが、2016年に私は思いがけず文化功労者になって、その後で鹿島美術財団の理事会があったんです。私が顔を出すと、故鹿島昭一理事長は、隣の高階秀爾選考委員(現、東京大学名誉教授)となにか話しておられましたが、私の方に目を向けられて「あなた、大変おめでたいことがあったそうだが、なにかひとつやり残したことはないの」とおっしゃった。私にはその意味がピンときました。
「調査プロジェクトが中断したのは残念だった。何とかしなきゃいかん。これだけお金を使って肝腎の絵巻を完了せずに終わるというのは本当に申し訳ない。」と思ったんです。しかし、第三次だけの出版は講談社もほかの出版社も引き受けないし、やるとしたら最初からやり直さなくてはいけないから、そのための予算というのを改めて組まなければならない。そういうことで出版社など見つかるかと私は非常に苦慮していたんです。けれども、たまたま円覚寺の悉皆調査で梅沢恵さん(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)にお会いしたんですよ。
そのとき、梅沢さんが自分が調査した仏画の写真を収めた冊子を私に見せて、今はパソコンを使えば個人の予算でもできるということを教えて下さったのです。こんなパンフレットみたいなものが簡単にできるようになったのであれば、カタログ・レゾネの出版も以前より安い経費でできるんじゃないかと思ったんですね。絵巻の追加調査を依頼した髙岸輝さん(東京大学教授)と梅沢さんが親しいこともわかって、そこから中央公論美術出版の鈴木拓士さんにも話が行って、鹿島調査が再スタートするという、思いがけない展開になったんです。新たなチームが組織されたところ、良いタイミングで竹崎宏基さんが2年の任期でボストン美術館の学芸員になられた。いろいろな幸運が重なった結果なんです。
私も絵巻の調査のために2週間ほど、梅沢さんとボストンへ行きました。
2週間であれば、経費はあまりかからなかったですね。最初の泉武夫さん(東北大学名誉教授)の仏画の調査のときは、3ヵ月かけて調査しているんだよね。ボストンにどういうものがあるかさっぱり分からないし、アンさんも仏画専門だし、悉皆調査できるのは貴重なチャンスだというので徹底的に見たらしい。鹿島調査も日本から30人くらいの研究者がボストンに派遣されていて、費用もやはり高額なものだった。
絵巻調査の場合、「吉備大臣入唐絵巻」(『調査図録』第6章1番)や「平治物語絵巻」(『調査図録』第6章3番)などの名品はゆっくり見せてもらいました。一方、模本類はかなり急いで、1日10巻ぐらいのペースで調査していきました。
絵巻の名品を全巻じっくり見るのはやはり特権だから、それは本当によかったです。