福田繁雄 ≪5次元のヴィーナス≫
近代美術史において、書芸はしばしば美術の範疇から排除され、周縁的な存在として扱われてきた。しかし、書と画を不可分のものと捉え、書芸が芸術観の重要な一角を占めてきた朝鮮の文化的伝統を考えるとき、こうした枠組み自体を問い直す必要がある。金貴粉氏の『植民地期朝鮮の書』は、書芸を正面から取り上げ、朝鮮の書家・呉世昌(1864―1953)の活動を通して、朝鮮時代末期から植民地期にかけての書の継承と創造を論じた力作である。
呉世昌は、1919年の三・一独立運動において独立宣言に署名した民族代表33人の一人であり、朝鮮の歴代書画家を集成した『槿域書画徴』の編纂者としても知られる。本書は、彼の書学観の形成や書の専業化、中国書法の受容と創造、書画史の編纂をたどり、さらに朝鮮美術展覧会における書部門の廃止や、朝鮮書道研究の日本への展開へと議論を広げる。書芸を作品の様式や技法の問題に限定せず、芸術家の社会的地位、文化的伝統の再編、植民地期の美術制度といった諸問題に結びつけた点に、本書の特色がある。
とりわけ重要なのは、書芸を中国書法の受容という観点からのみ捉えるのではなく、朝鮮固有の芸術観と文化的主体性の形成という問題に位置づけたことである。中国の伝統を学びながら独自の表現を切り開くこと、また『槿域書画徴』を通じて自国の書画史を体系化することは、過去を保存するだけでなく、朝鮮の文化的系譜を再認識し、その価値を示す営みでもあった。一方、朝鮮美術展覧会における書部門の廃止は、近代的な美術制度が何を芸術として認定するのかという問題を浮き彫りにする。書芸の位置づけをめぐる問題は、単なるジャンル分類ではなく、文化の価値を決定する権力とも深く関わっていたのである。
さらに、工藤文哉や比田井天来を扱う章は、朝鮮書道研究の日本への展開を通じて、植民地期の文化における日朝関係を一方向的な影響としてではなく、非対称な権力関係のもとでの知識の交流として捉える視座を提示する。
本書の意義は、これまで美術史の周縁に置かれがちであった書芸を研究の中心に据えることで、朝鮮における芸術のあり方そのものを問い直した点にある。書芸の歴史を通じて、伝統の継承と創造、近代的な美術概念の成立、そして植民地支配下における文化的主体性の問題をダイナミックに論じた本書は、朝鮮近代美術史の空白を埋めるとともに、東アジア近代美術史の枠組みを再考するうえでも重要な成果といえる。
(文・大谷大学教授 喜多恵美子)
| 著者 | ⾦貴粉 |
|---|---|
| 判型 | 四六判 |
| ページ数 | 240頁 |
| 定価 | 5,400円+税 |
| ISBN | 978-4-622-09832-4 |
| 発行日 | 2026年8月17日 |
| 出版社 | みすず書房 |