福田繁雄 ≪5次元のヴィーナス≫
本書は、アメリカの抽象表現主義を代表する画家バーネット・ニューマンに関する研究書である。欧米各地の美術館が所蔵する作品や、バーネット・ニューマン財団所蔵のアーカイヴ資料を詳細に調査し、膨大な先行研究を丹念に読み込んだうえで、ニューマンの制作活動から、没後の未亡人による作品の売却・寄贈に至るまで、その画業と評価形成の全体を考察した労作である。
ニューマンは、単色の色面を「ジップ」と呼ばれる細長い帯状の線が垂直に走る抽象絵画で知られ、1948年に制作した《ワンメント I》によって独自の画風を確立した。従来の研究では、この《ワンメント I》におけるジップ絵画の誕生が画業上の決定的な転換点として重視されてきた。これに対して吉田侑李氏は、《ワンメント I》の重要性を十分に認めつつも、そこに焦点を当てるだけでは、ニューマンが本格的な評価を獲得する1950年代末までの約10年間のタイムラグと、それが彼の制作に及ぼした影響が見えにくくなると指摘する。
吉田氏は、《ワンメント I》以後のニューマンの制作を、「自発性」と「作為性」の対立をめぐる問題として捉える。前者は直観的な創造的衝動に、後者はサイズや構図、色彩の組み合わせの選択、さらには既存のイメージの反復的な制作に表れている性質である。ニューマンはジップ絵画を確立した後も、この二つの契機のあいだに生じる緊張に向き合いながら制作を続け、自らの過去の達成を再評価し、歴史化していったというのが、本書の中心的な見取り図である。
吉田氏は、《ワンメント I》以後も自発性と作為性のはざまで苦悩するニューマンに関して、これまでほとんど注目されてこなかった二点の小品《無題1、1955》と《無題2、1955》に注目し、ともに自発性と作為性を兼ね備えていると指摘し、《叫び》(1958年)にも同様の二重性を見いだす。吉田氏は、これらの作品を通じて、ニューマンが不可避的に共存する両者のあいだに自らの絵画をいかに位置づけるかという問題に向き合っていたと論じる。
自発性と作為性の対立を解決する転機となったのが、1958年から1966年にかけて制作された連作「十字架の道行き――レマ・サバクタニ」である。吉田氏によれば、この連作においてニューマンは、衝動と統御、概念と制作を一致させることによって、自発性と作為性を一体化させるに至った。さらにそこから、《ワンメント I》以後の自らの制作の軌跡を新たな作品に重ね合わせ、自身の画業そのものを歴史化する制作モデルが形成されたと論じる。
この自己歴史化の実践は、晩年の「誰が赤、黄、青を畏れるのか?」の連作(1966–70年)や、《エリコ》(1968–69年)、《ザ・ウェイ II》(1969年)、《存在せよ I(セカンド・ヴァージョン)》(1970年)へと展開する。ニューマンはこれらの作品において、初期作品の構図や色彩、サイズなどを再利用することによって、制作当時には十分な評価を得られなかった自らの初期作品を回顧的に読み直し、自身の抽象表現を再評価すると同時に、その歴史的な位置づけを自ら作り出していったと吉田氏は論じる。
さらに本書は、《壊れたオベリスク》(1963/1967年)、《デイリー市長へのレース・カーテン》(1968年)、《ツィム・ツーム I》(1969年)といった彫刻作品にも考察を広げる。吉田氏はこれらの作品に自己意識と歴史意識を見いだし、「十字架の道行き」において形成された自己意識と自己歴史化の方法が、絵画から彫刻へと展開されたものとして解釈している。
最後に考察されるのが、ニューマン没後の作品の布置と評価形成である。ニューマンの妻アナリー・ニューマンが、1970年代から1990年代にかけて欧米の美術館に作品を寄贈・売却し、その後、ワシントンのナショナル・ギャラリーやニューヨーク近代美術館などが重要作品を収蔵するに至る経緯を詳細に検討する。そして、アナリーによる遺作の布置戦略が、ニューマンの没後の評価を確立するうえで大きな役割を果たしたことを明らかにする。ここでは、ニューマン自身が晩年に試みた自己歴史化が、没後には作品の収蔵と展示を通じた歴史化へと引き継がれていくことになる。
本書は、吉田氏が2022年に米国のライス大学(テキサス州ヒューストン)に提出した博士論文「抽象の定位——バーネット・ニューマンと歴史化のシステム」をもとに、大幅な加筆・修正を施して刊行されたものである。吉田氏による先行研究の渉猟は、ニューマン研究はもとより抽象表現主義研究全般に及び、近年の研究まで広く網羅している点は称賛に値する。また、作品を実見しているからこそ可能となった細部への鋭い注目と、そこから導き出される新たな解釈も本書の大きな魅力である。バーネット・ニューマン財団所蔵のアーカイヴ資料の徹底した読み込みも特筆すべきものであり、ニューマンの作品の大半を視野に収めながら、その制作と歴史化、さらに没後の評価形成までを丁寧な筆致で論じている。日本語はもとより英語圏を見渡しても、これほど浩瀚かつ包括的なニューマン研究は稀である。ニューマン研究のみならず、抽象表現主義や戦後アメリカ美術に関心をもつ多くの読者に広く読まれることを期待したい。
(文・加治屋健司)
| 著者 | 吉田侑李 |
|---|---|
| 判型 | A5上製函⼊ |
| ページ数 | 556頁 |
| 定価 | 16,000円+税 |
| ISBN | 978-4-8055-1080-3 |
| 発行日 | 2025年11月30日 |
| 出版社 | 中央公論美術出版 |