福田繁雄 ≪5次元のヴィーナス≫
本書は、マティスをはじめ西洋近現代美術をご専門とする天野知香先生のお茶の水女子大学のご退任に合わせて編まれた。ジェンダー、他者表象、そして「芸術」の境界を問うという相互に関連する3つの問題系をめぐる14編の論文は、美術史を支えてきた権力構造を批判的に問いながら、美術をより複雑で豊かな語りへと開いていくものである。
第1部女性芸術家をめぐってでは、美術におけるジェンダーの非対称性に注目する。男性に比して教育機会や制作領域に制限があるなかで、女性芸術家がどのように活動を展開したか、16世紀のネーデルラント、19世紀のフランス、ドイツ、20世紀の日本の芸術家の事例を取りあげ、各時代や社会状況に照らして詳らかにした。これらの研究は新たな芸術家の掘り起しに留まらず、これまであまり言及されてこなかった芸術の諸実践についての語りとその手法を充実させていくものである。
第2部の「他者」をめぐる眼差しでは、「他者」との交渉が世界的に加速した近代以降、西洋と東洋、「人種」の概念、アイデンティティの形成をめぐって生み出された表象の機能を論じる。展示空間の問題や作品のモチーフ、素材や技法の選択など、視覚表象の成り立ちにおける重層的な構造についてのさまざまな論点が示されながら、規範的価値観とその「他者」という枠組みが問われる。「自己」を規定することと表裏に進行する「他者」を眼差す運動は、「他者」に位置付けられた芸術家を追うことでも多角的に検討され、この問題のより複雑な性質が浮き彫りにされた。
第3部の「美術」の境界では、狭義の「美術」の領域を揺さぶりながら展開してきた領域横断的な制作に焦点を当てる。15世紀イタリアの印刷技術、フランス近代における装飾の問題、帝国主義時代の日本の服飾や、現代のイギリスの演劇などの視覚表象がとりあげられた。これらの研究が明らかにするのは、芸術家が、技術の発達や鑑賞する側の要請の移り変わりなど、時代の変化との緊張関係のなかで多様な媒体を駆使して活動を積み重ねてきたことである。同時に、語り手があらゆる視覚表象のなかからいかに「美術史」を編んできたかということにも疑問を差し向けることで、「美術」の仮構性とその拡張を示唆する。
収録された論文は、個別の芸術家や視覚表象に深く分け入りつつ、同時に既存の美術史をグローバルな視点で問い、新たな解釈と意義を切り拓くという広い射程を持つ。その意味で本書は、個々の執筆者の関心に根差すモチーフが研究の場で豊かな対話を生み、開かれた「アジール」となって提示されたものといえよう。日本の美術史学におけるジェンダー論やポストコロニアリズム研究を牽引した天野先生を中心に交わされた議論の研ぎ澄まされた成果としての「アジール」が、書籍というかたちを得て美術や視覚文化に関心を持つ人に広く届けられることの意義は大きい。
美術作品を見ることと歴史に学ぶことの大きな喜びに接しつつ従来の価値観を問い直す、本書はその姿勢に貫かれている。先行研究が明らかにしたコンテクストに新しい糸を織り込んでいくという、各論文でなされた繊細かつ創造的な仕事が、現代と未来の読者がもつそれぞれの「アジール」と共鳴し、交差していくことを思い描きつつ紹介文としたい。
(文・木下紗耶子 練馬区立美術館学芸員)
| 著者・編者・監修 | 天野知⾹先⽣退任記念論⽂集編集委員会(編集) 廣川暁⽣、志⽔圭歩、原⽥佳織、伊藤彩乃、味岡京⼦、正路佐知⼦、粂和沙、諏訪園真⼦、⾨⽥園⼦、内⼭尚⼦、松下真記、袴⽥紘代、安城寿⼦、⾦⽥迪⼦(著者) |
|---|---|
| 判型 | A5判上製 |
| ページ数 | 424頁 |
| 定価 | 定価6,200円+税 |
| ISBN | 978-4-86405-195-8 |
| 発行日 | 2026年03月31日 |
| 出版社 | 森話社 |